こんばんは!物江です。
とは言え被災地は災害ボランティアに連れて行くにはまだまだ復旧、復興には程遠い現状でした。
そんな中で「がれきの学校」として親子で被災地を訪れて学ぶツアーがあることを知りました。
その当時は子供たちに被災地の光景を見せてよいのかそうでないのか?
ということから一人で参加してきました。
https://chikyugenkimura.jp/blog/1715/
震災当時は信じられない光景、戦争?この世のものとは思えない、映画の世界?津波の恐ろしさ、怖さを実感!!!
福島は3.11以降ずっと時間が止まっている感じ・・・
その後何度か被災地を訪れており、今は・・・
人口的なイメージ、町はきれいに整備されているが人が少ない、活気がない、どこかさびしい・・・
福島は今もあちこちで立ち入り禁止区域があるのでこの状態が永遠に続くのかと思ってしまう・・・・・
そんなことを思いながら、南三陸の防災対策庁舎に到着する。
訪れた当日(11月6日)は震災遺構ですがあえて周りから見えにくいように盛り土がされているような印象でした。
次に語り部の方からのお話の中で東日本大震災により、「海が50年若返った」という話が印象的でした。お亡くなりなられた方の命は戻っては来ません。到底悲しみが癒えることはない中で残された方々が今後どう生きるかを考えされられるお話しでした。
そして自然の許す範囲で「人は生かされている」という言葉が響きました。自然と共生と思いながらも人のエゴを優先にした生き方をしてきたなと思います。お話を聞いていく中でSDG‘sという言葉がよぎりました。大きなことではなく身近にできる人ができるところからできる範囲で実践していくことだと思いました。
ここでも語り部さんのお話を聞くことができました。
小学校5年のお子さんを亡くされた中で語り部としてお話をして頂いたことには感謝しかありません。
悔やんでも悔やみきれい、やりきれい思いが伝わってきました。東日本大震災から10年が経過しましたが語り部さんのお気持ちは10年前と同じであると感じました。子供を亡くした親御さんの中には10年経って悲しみが増している親御さんもいるそうです。
なぜだろうと考えてみました。大川小学校には何度か訪れており、語り部の方からもお話しは聞いております。
責任の所在を明らかにするというよりも真実を知りたい。なぜ、津波が来るから避難しなさいという情報がありながら、なぜ校庭に待機し続けたのか?避難を開始してもなぜ、目の前に山側に逃げなかったのか?無念、悔やんでも悔やみきれない気持ちが伝わってきて、10年経っても決して悲しみが癒えることはない!と思いました。
話は少し違うかもしれませんが組織のトップは緊急時こそ、特に判断力、決断力は大事であり、常に最悪のリスクを想定しておくことであると思います。
自然災害では地震、噴火は防げないと言われていますがその後の判断、決断によって人災と言われるようなことには決してあってはならないと思いました。
大川小学校は震災遺構として残りました。震災遺構として残す、残さないはそこにお住まいになられている住民の方の意思が尊重されるべきだと思います。そのうえで語り部さんは「校舎で亡くなった児童はいない」だから残して良いと思う。
この言葉には子供たちの学校での楽しい思い出までもなくしたくはないという思いと本当は見るのは辛いけど語り部として伝えなくてはならないことを伝えていくなかで到底納得はできないけど自分を納得させるためにあえてそのようなお考えをされているのではないかと思いました。
そしてふと南相場のボランティアセンターで教わった言葉を思い出します。
「できる人ができる時にできる事を行う」ということを改めで思い出しました。
(物江のちょっとオーバートークです)
①自然、社会から生かされている。地球から生活することを許され、生活空間を借りているので借りたものはきちんと返さなければならないことを肝に銘じて生きること
②自分の時間とお金をちょっとだけでも世の中の問題を知ることに使うこと。そして知ったらばほんのちょっとだけ貢献する行動をする
③物事を長い目で見ること、拡大、成長、効率が最優先ではない。持続可能な社会、生き方の為に今為すべきことをする。
あれから10年という節目?の中で目に見える物理的な復興は想像することは可能でしたが「心の復興」はどうなんだろう?をテーマを持って参加させて頂きました。
語り部の皆さんのお話をお聞きする機会を頂き、艱難辛苦に向き合っている皆さんから沢山の勇気を頂きました。感謝、感謝です。
自分は自分ができる役割を全うしようと思います。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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